![]() |
![]() |
![]() |
愛媛労働安全衛生センター | 愛媛労働安全衛生センターとは / 深刻な労災職業病 / 最近の相談活動 / 最近の相談への対応 / アスベスト問題 / 四電アスベスト裁判 / その他の活動 /活動方針 / 構成と規約 / |
![]() |
![]() |
アスベスト裁判の記録集「石綿暴露」発行 |
アスベスト裁判記録集「石綿曝露」出版!!
四国電力アスベスト裁判に付きましては皆様のご協力をいただき大変ありがとうございました。
さて、このたび四国電力アスベスト裁判に関する記録集「石綿曝露」ができあがりましたのでご報告させていただきます。
これは、日本で初めての発電所で発生したアスベスト被災を告発した裁判の記録です。この本は二部構成で、第一部は読み物風で、被災者の家族や弁護士、医師、労職対などの苦悩やエピソードなどを交え裁判の過程を分かりやすく解説しています。特に裁判の中でニューヨークのマウントサイナイ医科大学鈴木康之亮教授の証言内容は興味を惹かれます。
第二部は「アスベスト疾患の現状と展望」と題した座談会の内容とアスベストに関する文献が収められています。特にここでは、被災の実態を明らかにする事の困難さや専門家の役割、今後、この裁判の果たす役割などが語られています。また、文献資料では、諸外国の火力発電所のアスベスト被災の報告や発電所におけるアスベストの使用状況などが掲載されており、専門家だけでなく今後予想される発電所アスベスト被災についての重要な資料となるでしょう。
なお、全国の書店にて販売予定ですが、愛媛労働安全衛生センターでは特別価格にて行なっておりますのでご利用ください。
愛媛労働安全衛生センター編 晴耕雨読刊 星雲社発売 定価1995円
四国電力労災死事件訴訟「石綿曝露」注文受付中!
定価 1995円)送料込み2200円
![]() |
四国電力アスベスト裁判和解 1999/10/30 |
アスベスト裁判が和解しました。
これはアスベストの吸引により、死亡した元四国電力西条発電所職員Aさんの遺族が四国電力に補償を求めて訴えていたもので、愛媛労働安全衛生センターも支援していました。
裁判は六年を要しました。和解金の内容は決して十分満足いくものとは言えませんでしたが、口頭とはいえ企業より謝罪を引きだせた事は成果でした。
この裁判はアスベストにかかる発電所の裁判としては、日本ではじめてのものでした。
そのため、ご遺族の皆さんの奮闘、手弁当による弁護士事務所の支援や、全国のアスベスト問題に取り組む医師や研究者の協力、さらにアメリカの大学の教授による裁判での証言など多くの人の支えがありました。
この裁判の経過の要旨をご報告いたします。
![]() |
Aさんの死亡 1984/2/24 |
Aさんは、1944年から1984年までの約40年にわたり、四国電力西条発電所の現場で電気運転員、電気補修員として働き、定期点検や日常の修理点検の際、アスベストに曝露されてきた。Aさんは1984年2月24日に亡くなられた。
Aさんの死亡時、担当医師は奥さんに、Aさんの病名が悪性中皮腫であること、アスペストによるものであることを告げた。そして、医学の発展のために解剖する同意を求めた。
看護婦だった奥さんは、「医学の発展のため」ならと同意、愛媛大学で死体解剖が行われた。死因は死亡診断書では悪性中皮腫とされていたが、病理解剖では肺がんとされた。
しかし、なぜか主治医は、「今はアスベストは労災にならないが、いずれ労災扱いとなるでしょう」との説明が加えられた。実際は当時でも、仕事中にアスベストに暴露し、人体や肺がん、悪性中皮腫等の健康被害を被った場合、本人または遺族が、労災保険の保証対象となった。しかし、そのことが医者も含めて一般によく知られていないため、補償を受けた人はごくわずかであった。
Aさんに症状が出てから死亡するまで、家族にとっては、あっという間の出来事だった。働きざかりのAさんが亡くなり、奥さんには新築したばかりの家のローンと大学受験を控えている子供さんが残された。今では子供さんもそれぞれ大人になり、家庭を持ち、人に苦労は見せない奥さんだが、今日に至るまでの苦労は察することができる。
![]() |
訴訟を提起 |
1991年、全国労働安全衛生センター連絡会議は、発がん物質アスベストの製造・使用、輸入等を禁止する、アスベスト規正法制定の運動の一環として、アスベストに暴露し、職業がん等の健康被害を受けた労働者とその家族から、労災補償の問題の相談を受け付ける「アスベスト・職業がん110番」を全国約10カ所で実施した。
この「アスペスト110番」の開設を新聞で知ったAさんの奥さんは、朝一番で直接、愛媛労働安全衛生センターに相談にでむかれた。しかし、その時にはすでに労災保険の時効は過ぎていた。
平成5年11月に、Aさんの奥さんと3人の子が原告となって、四国電力に対し、約6400万円を請求する訴訟を提起した。
この裁判において、Aさんの遺族は歯を食いしばってそれに臨んできた。一方、この裁判は困難が予測される中で、草薙薦田弁護士事務所(松山)の草薙順一弁護士が中心となり手弁当での取り組みが開始された。そして瀬戸内法律事務所に改名後も、藤田育子弁護士により奮闘が続けられ、さらに横浜・協同法律事務所の森田明弁護士が加わって弁護団を形成し、裁判が続けられた。
また、この裁判での、死亡原因をめぐる医学論争では、全国各地で労災職業病に取り組んでいる医師や専門家、活動家の協力により医学文献の収集や海外の情報の収集、翻訳作業が全国規模で行われた。そういった中でニューヨークのマウントサイナイ医科大学の鈴木康之亮教授の全面的な協力も得ることができ、日本初の発電所アスベスト裁判が取り組まれていった。
![]() |
厳しい作業実態の立証 |
被告・四国電力は、Aさんの職場ではアスペスト粉じんを吸う機会はなかったはずであり、死因は肺がんで、アスペストではなく喫煙が原因であること等を主張して全面的に争った。
訴訟では、早い時期に双方から鑑定申請がされた。鑑定で悪性中皮腫となれば、原因がアスベストであることが明らかになるし、被告の職場に起因することも推定できると考え、原告側も申請したのである。
しかし、1996年6月に提出されたK教授(福井医科大学)の鑑定は、悪性中皮腫を否定し肺がんとするもので、被告側に極めて有利なものであった。
次いで裁判は、作業実態(アスベスト曝露の有無)の立証に入ったが、本人は既に亡くなっており、奥さんは現場を直接は知らず、陳述書を書いてくれた同僚は会社からの働きかけで会社に有利な「訂正陳述書」を出すなど立証は難航し、会社側の2人の証人の証言がまかり通ってしまいそうになった。
西条火力発電所は、伊方原子力発電所と並び、四国でも有数の発電所である。Aさんは、約40年勤めた四国電力の社員であり、亡くなった当時は管理職でもあった。当然のごとく、職場の安全管理状況の実態証言を引き出すことは容易ではなかった。また、現場である四国電力西条発電所に関する資料は極めて乏しく、ましてそこでのアスペスト粉じんの実情をうかがわせるような資料は容易に見つからない。現場検証の申立などしたが、現在の発電所と当時とでは大違いで、苦しまぎれの観は否定できなかった。
![]() |
鈴木康之亮教授の証言 1999/3/19 |
切り札として考えていたのが、アスペスト疾患の世界的権威であるアメリカ・ニューヨークのマウントサイナイ医科大学の鈴木康之亮教授の証言である。しかし、鈴木先生に意見を聞こうにも、鑑定後パラフィンブロック等の標本類は愛媛大学に返されてしまっており、裁判所も再び取り寄せ手続はしてくれそうにない。
八方ふさがりの中で、某医師のアドバイスから、遺族には標本の引き渡しを求める権利があることがわかり、これを梃に交渉して、大学から資料を預かり、アメリカへ送って、鈴木先生による分析・検討を受けることができた。
この結果、具体的な根拠を示して悪性中皮腫と診断する意見書を作成していただき、1998年6月に提出。そして、被告の抵抗を排して鈴木先生を証人として採用させた。
しかし、この時点ではまだ裁判所の姿勢は、「原告が他に立証方法がないというので一応聞いてあげましょう」という程度のものであった。
1999年3月に、鈴木先生の証人尋問。わざわざ来日いただくので、1回で反対尋問まで終わらせる予定で、そのために主尋問のアウトラインや資料を事前提出し、尋問の打ち合せは前日集中して行なうというハードスケジュルとなった。鈴木先生の証言は極めて明快で説得力があり、被告の反対尋問はヤブヘビとなった。裁判所の考え方も大きく変わったようであった。
![]() |
アスベスト被災をなくす松山集会 1999/3/20 |
1999年3月20日松山市勤労会館において愛媛労働災害職業病対策会議、全国労働安全衛生センター連絡会議、労働者住民医療連絡会議の3者主催によるアスベスト被災をなくす松山集会が開かれ約100名の参加がありました。この集会はアスベスト被災の廃絶を訴えると共に四国電力アスベスト裁判を支援する事を目的に開かれたものです。
アスベスト被災をなくす松山集会 鈴木康之亮教授の講演行われる
集会は主催者を代表して愛媛労働安全衛生センターの川上英奇議長と全国労働安全衛生センター連絡会議の古谷杉郎事務局長が挨拶に立った後、横須賀から参加されたじん肺アスベスト被災者救済基金の林充孝事務局長、石綿対策全国連絡会議で全建総連の老田泰雄労対部長より連帯の挨拶が行われました。
続いて四国電力アスベスト裁判についての経過報告が白石昭夫事務局長よりあり、瀬戸内法律事務所の藤田育子弁護士から裁判の経緯と状況の報告が行われました。藤田育子弁護士からは、集会の前日の3月19日に開かれた法廷で、ニューヨーク・マウントサイナイ医科大学の鈴木康之亮教授が被災者側証人として出廷され、死亡した元四国電力電気修理工Aさんの死亡原因がアスベスト被曝による悪性中皮腫によるものである事を証言された事、四国電力側の意見を否定する重要な証言である事が報告されました。また、集会には亡くなったAさんの遺族の参加があり、裁判への覚悟と支援者へお礼の挨拶を受けました。
続いて鈴木康之亮教授により「アメリカのアスベスト被災の実態について」と題した講演が行われました。鈴木教授はアスベストに関する病理学では世界的権威で、全米での6000件に余る病理経験を元に証言に立たれています。特にアメリカでは発電所アスベスト被害の裁判が多発しており、今回の裁判は全国に影響する重要なものでした。
講演には前日の裁判の傍聴から参加されている医師、研究者や、全国の安全センターの活動家らの参加もあり、鈴木氏の被災者の立場に立った専門家の講演に耳を傾けていました。
![]() |
和解へ |
被告もこのままではまずいと、K鑑定人の尋問を求め、これを実施する前提で、打ち合せの期日が6月にもたれた。しかし、この席上で、裁判所は突然、双方に和解勧告をした。被告代理人はぴっくりして、「まず北川尋問をやってからにしてほしい」と抵抗。
原告側もこの段階での和解が妥当か迷ったが、裁判所が、基本的には原告側に有利にと考えて北川尋問前に勧告したことを尊重して、和解の席に着くこととした。裁判所の重ねての勧告で、被告も和解を検討することとなった。
以後、8月、9月、10月と3回にわたり和解期日を持ち、双方から案を提示した。双方の案の開きは大きかったが、最後は裁判所の提案で500万円という金額で10月30日に和解が成立した.
500万円という額は、もちろん、人の死亡の損害としては十分な額ではないが、責任がないことを前提とする「見舞金」としての額の水準は超えており、完全にではないにせよ、実質的に責任を認めたものと評することはできよう。
また、原告側からは金額もさることながら、被告の弔慰及び安全対策への努力の表明を和解文言に入れることを求めたが、これは裁判所自体が消極的で実現できなかった。ただ、和解手続終了後、被告代理人が原告本人らに対して、「あいさつ」をすることで「弔慰」の一端を示した。
![]() |
今後の課題 |
アメリカでは、1991年に連邦裁判所に、発電所労働者の696例の集団訴訟が行われ、またニューヨーク州裁判所でも同様に880例の集団訴訟が行われている。その多くは、悪性中皮腫・肺がん、石綿肺であり、残りも胸膜肥厚斑・胸膜繊維腫等の病名。
しかし、日本ではたった一例、Aさんの事例しかないのである。今回の裁判においては、遺族と支援する愛媛労働災害職業病対策会議など地域安全センターと、専門家の闘いだった。アスペストによる悪性中皮腫の潜伏期間は20年以上。今後も被災者はさらに出てくるものと思われる。
悪性中皮腫も肺がんも石綿肺も全て仕事が原因の病気であり、アスベストの危険性がわかっていながら使用し続けたための病気である。労働者は好んで被災しているのではない。医学や科学が進歩していないから起きているのでもない。アスベストの危険性を知らせず、対策をとらず、放置したために起きているのであり、企業や行政は当然責任が問われなければならないし、また、アスベストによる病気と診断した医師も、せめて遺族に職業病であることや補償制度があることくらいは説明すべきである。
今日もアスベストで死亡した遺族の多くは補償制度さえ知らない状況にあると考えられる。このことはとりもなおさず、今なお政府がアスペスト全面禁止に踏み切っていないことと無縁ではない.
今回の裁判では全面勝利とはいかなかったが、厳しい条件の中で最大限、闘い抜いたと思う。今後さらに、被災者・遺族への働きかけを通じ、アスペストの危険性を訴え、アスベスト禁止を勝ち取る運動を成功させる必要がある。
このページは全国労働安全衛生センター連絡会議が発行する
「安全センター情報」2000年1・2月号の記事
「解決報告・四国電力アスベスト労災死事件」 弁護士 森田 明
「四国電力石綿訴訟が和解」 愛媛労働災害職業病対策会議 事務局長 白石 昭夫
をもとに、作成させていただきました。
![]() |
![]() |
![]() |